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ガジェット趣味の最終形態は、たぶん「冗談みたいな買い物を、真顔でする」ことである。
俺が買ったHHKB Professionalの30周年記念モデルには、特別な装飾が施されていた。そして手元に届いたそれを眺めながら、俺はシートにこう書いた。バカだよな。Ctrlキーなら漆塗りのいいのがあるのにさ。——そう、この世界には漆塗りのキーキャップという工芸品が存在し、俺はそれを知った上で記念モデルに手を出しているのである。キーボードのキー一個に伝統工芸。完全にどうかしている。どうかしているのだが、この沼の底で俺が触れたものの話は、どうかしていない。むしろキーボード選びの本質だった。
なお、俺の買った30周年モデルは限定品で今は流通がほぼない。だからこの記事は「30周年モデルを自慢する記事」ではなく、その本体である現行のHHKB Professional HYBRID Type-Sに、そのまま当てはまる話として書く。リンクも現行モデルのものだ。
HHKB Professionalとは:静電容量無接点という別世界
HHKB Professionalは、PFUが作る静電容量無接点方式のキーボードだ。普通のキーボードがキーの底で物理的な接点を叩いて入力を検知するのに対し、静電容量無接点は接点そのものがない。キーが一定の深さまで沈んだことを静電容量の変化で検知する。つまり底まで打ち切らなくても入力が成立する。
そして俺のモデル(および現行Type-S系)の押下圧は30g。これはキーボード界でもかなり軽い部類で、指を乗せて、ほんのわずかに沈めるだけで文字が生まれる。配列は独特のコンパクト設計、カーソルキーすら潔く省いた思想の塊だ。仕様や配列の選択肢、現在の価格はリンク先で確認してほしい。
HHKB Professionalの本音レビュー
俺の感想はこうだ。
バカだよな。Ctrlキーなら漆塗りのいいのがあるのにさ。とはいえ、静電容量式の滑らかなタッチ+30gの押し心地は異次元。撫でるだけで文字が入力される。
「撫でるだけで文字が入力される」——この一文は比喩ではない。実況である。初めて長文を打ったときの感覚は、キーを「押している」というより、鍵盤の上で指を転がしているのに近かった。スコスコ、という上品な音とともに、底打ちの衝撃がないまま文字列が伸びていく。打鍵とは本来、一打ごとに指へ衝撃が返る作業だ。その衝撃が消えると、夕方の指の疲労が変わる。長文を書く人間ほど、この差は複利で効いてくる。
もう一つの発見は、ミスタッチとの関係だ。30gという軽さは、最初の数日こそ「触れただけで入力される」戸惑いを生む。指をキーの上で休ませる癖のある人は、意図しない文字がポロポロ生まれるだろう。だが手がこの軽さを学習すると、今度は指の移動そのものが最小化されていく。力まない、押し切らない、撫でる。タイピングの所作が変わるのだ。道具が人間の動きを再教育してくる感覚は、HHKB Studioのスティックとはまた別方向の「育てる楽しみ」である。
闇も並べよう。第一に、価格。キーボードとしては最高級ゾーンで、しかも俺のように限定モデルや漆塗りキーキャップという「宗教画コーナー」が待ち構えている。財布の防御力が試される。第二に、独特の配列。合理的だが慣れは必須で、他人のPCとの往復が多い人は頭が混線する。第三に、この軽さ自体が好みを分ける。「しっかり打ち返してくる手応え」が好きな人(俺の別記事で書いたZENAIM派のような)には、頼りなく感じるはずだ。打鍵感の正解は一つではない。
初日の誤入力日記を公開しよう。30gの世界に来た初日、俺の文書には謎の文字が点在した。「kですが」「そのt通り」——指をキーの上で休ませる癖のある俺は、休ませたつもりの指の重みだけで入力を成立させていたのだ。人間の指は、自覚より重い。三日目あたりから、指は「乗せる」と「打つ」の区別を学び始め、一週間後には誤入力が消えた。そして気づく。矯正されたのは誤入力ではなく、俺の指の所作そのものだった。力んで底まで叩きつける打ち方が、いつの間にか、表面を撫でて次へ移る打ち方に変わっている。キーボードに打ち方を教わる日が来るとは思っていなかった。
音の話もしたい。静電容量無接点の打鍵音は、よく「スコスコ」と表現される。この擬音は正確だが、実物の音の上品さを半分も伝えていない。カチャカチャという接点の衝突音がなく、低く整った音が連続する。深夜の書斎でこの音だけが続く時間は、ちょっとした瞑想である。在宅会議中にマイクが拾っても嫌味がないのも実務的な利点で、俺の同僚のメカニカルの銃撃音とは会議での存在感がまるで違う。
そして、この沼の恐ろしさを正直に伝えねばならない。HHKBに慣れた指で、会社の備え付けキーボードに戻った日のことだ。指が沈む。底がある。一打ごとに衝撃が骨に届く。昨日まで何も感じなかったはずの普通のキーボードが、農具のように感じられた。人間の感覚は、上を知ると下方修正がきかない。つまりこのキーボードを買うということは、世の中の大半のキーボードを「我慢の道具」に変えてしまう呪いを受けることでもある。俺はこの呪いを受け入れた上で、外出用の算段を考え始めている。沼とはそういう場所だ。
ちなみに冒頭の漆塗りキーキャップは、まだ買っていない。買っていないが、ブックマークは、してある。人間の防衛線というのは、こうやって一段ずつ下がっていく。
総評するなら、長文を書く人間のための、疲労と所作を根本から変える異次元の道具。ただし値段も配列も軽さも、全部が人を選ぶ。
静電容量30gは誰向けか:打鍵感の好みで診断する
キーボード沼の住人を3派閥に整理する。
(1)とにかく疲れたくない長文派。 毎日数千字を打つライター、プログラマー、ブロガー。30gの軽さと底打ち不要の構造は、この層のためにある。指の疲労は1日では気づかないが、1年では確実に差になる。
(2)打鍵の手応え重視派。 押し込む感触、確かなクリック感に快感を覚える層。この派閥に30gは合わない可能性が高い。メカニカルの世界(それこそ俺が別記事で書いた固め短ストローク系)で幸せになってほしい。
(3)所有欲・完成品派。 道具としての完成度、思想、歴史込みで「上がり」の一台が欲しい層。HHKBはこの層の巡礼地であり、限定モデルや漆塗りキーキャップという最深部も待っている。財布と相談の上、入山してほしい。
買ってはいけない3か条。一、キーボードに1万円以上は冗談だと思っている人(この世界線とは価値観が違いすぎる)。二、矢印キーがないと生きていけない人(思想ごと買う覚悟が要る)。三、ゲームのキー同時押し精度が最優先の人(それは専用機の仕事だ)。
入門希望者のための実務も、沼の先輩としてまとめておく。
Q. 無刻印と刻印あり、どっちを選ぶ? HHKBには文字の印字がない「無刻印」という求道者向けの選択肢がある。見た目は最高に格好いいが、記号や数字の段で迷子になる日が来る。タッチタイピングに絶対の自信がある人以外は、刻印ありが平和だ。格好よさは、使いこなしてから追加注文すればいい。
Q. 日本語配列と英語配列は? これは宗派の問題なので、現在使っている配列を継続するのが原則だ。配列の乗り換えとHHKB独特のキー配置への適応を同時にやると、脳の負荷が倍になる。変化は一度に一つ。ダイエットと同じである。
Q. 独特の配列、本当に慣れる? Controlキーの位置など、HHKB流の配置には設計思想があり、慣れると「こちらが正しかったのでは」と思えてくる。目安として、俺は一週間で日常速度に戻り、二週間で以前より速くなった。ただし職場の共用キーボードと往復する人は、脳内に二つの配列を住まわせる期間が続く。在宅中心の人ほど、移行はスムーズだ。
Q. Type-Sの「S」は何? 静音性(Silent)だ。ただでさえ上品な打鍵音が、さらに抑えられている。深夜の執筆、在宅会議、家族が寝た後のリビング——静かさが求められる場面が多い現代の働き方と、この仕様は相性がいい。
最後に一つ。このキーボードは、キーキャップや純正パームレストなど、周辺の沼も充実している。最初は本体だけでいい。周辺装備は、指が「ここが俺の家だ」と認めてからで遅くない。認めた場合の出費については、俺は責任を持たない。
結論:「極まった道具は、冗談の顔をしてやってくるの法則」
最後にまとめよう。今回の教訓は「極まった道具は、冗談の顔をしてやってくるの法則」である。
キー一個に漆塗り。記念モデルに大枚。撫でるだけで入力される30g。字面だけ並べれば全部冗談だ。だが道具というのは、突き詰めた先で必ず一度「傍から見れば冗談」の領域を通る。そしてその領域にあるものだけが、毎日数時間触れる道具の体験を、本当に変えてくる。バカだよなと笑いながら、俺の指は今日もこのキーボードの上で一番機嫌がいい。
長文と付き合う人生なら、一度この異次元に触れてみてほしい。現行モデルの仕様と価格はリンク先で確認を。笑いながら買うのが、この沼の正しい作法だ。


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